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(DIARY) 2019年1月~


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■あけましておめでとうございます
 何事もなく弐千弐拾年を迎えて、管理人はのんびりテレビを見て過ごしています。
 年が変わりましたので、この「風だより」も新しいページ(こちら)で始めようと思います。今年もよろしくお願いいたします。(2020/1/2)

■羽生玄栄さんの特集をしてみました
 いつになく気ぜわしい年末です。残された時間があまりないせいでしょうか。
 ネットのニュースではオリオン座のペテルギウスが近々超新星爆発を起こして消滅するかもしれないとのことでした。ペテルギウスはオリオン座の長面か松原あたりにある(管理人個人の思い込みです)最も明るい星で、ずいぶん前からいつ爆発してもおかしくないと言われていました。爆発すると昼間でも見えるほど明るくなるそうです。
 12月は塩田研究のFSさんの「羽生玄栄さんの調査レポート」や永沼家末裔の“しんちゃん”の「凌雲が長面に暮らしていた訳」というお便りを中心に「玄栄さんのこと」という特集(こちら)を作ってみました。
 幕末から戊辰戦争にかけて活躍した人で、長面に隠れ住んでいたということです。お墓や功績碑が長面・龍谷院の墓地にあります。
 管理人は幕末や新選組にあまり興味がないため、背景を知るのに苦労しました。同様の方もおられると思い、背景をまとめた「資料編」(こちら)も作ってみましたのでお時間のある時にでもご覧ください。
 さっそくold間垣boyさんのお便りがありましたので、ご紹介します。

●old間垣boyさんの第一信
 特集「玄栄さんのこと」が完成する前の12/23のお便りで、それにはおもしろい想像が膨らんでいました。
 羽生玄永さんの事に触れられ、目から鱗で歴史の面白さを一層 感じました。登米伊達家の御典医だった玄永さんが佐久間象山の子を隠匿したくだりは興味大有りで昨年の戊辰150年のフィーバー振りが甦り、ベールに包まれた部分をそっと覗いた気がしました。
 象山は勝海舟の妹と夫婦になり、その意味においても戊辰革命真っただ中の中心人物でその人間模様の一端が大川・長面にまで及んでいた事に驚き、感銘しました。
 格二郎は妾の子だったらしいですが象山が薩摩藩士の刺客に討たれた後、長面に遁走し玄永さんに匿われたというストーリーは興味津々です。深読みするなら17-8才で江戸から遥か長面に遁走できたのは伊達藩の庇護があったからかも知れません。
 戊辰戦争と大川との関連性。その史実はまさに興味深いもので新たな発見に気を良くしてます。
 ただ、30才を目前に食あたりで早世した格二郎さんは世間的にはあまり評判は良くなかったらしいですが長面での隠遁数日間はどんな思いだったか、匿った側の命がけの庇護にどんな思いを馳せたのかこれ又関心事です。

※以上が第1信で、後半の格二郎が長面に遁走したくだりは、管理人の予告編の書き方がまずかったための誤解ですが、お話としては面白いですね。

●old間垣boyさんの第二信(12/26)
 戊辰革命=文明国家の曙 明治維新の誕生にはこんなイメージを持っております。
 昨年の「戊辰戦争150年」展イベントは くしくも賊軍呼ばわりに甘んじざるを得なかった東北各藩の所在地では 〇△展と名付け、各々の果たした役割の再アピールに注力してました。
 特に、最期の要塞だった会津のそれは大掛かりで、それに呼応するかのように宮城は伊達藩の城下町、仙台・白石・岩出山・登米などで歴史学者の講演を交えて歴史回顧のイベントを大勢の参加者と共に挙行され、仙台市博物館では1か月もの期間を、そして奥羽越列藩同盟会議の地、白石城ではそれぞれの旧藩から代表が登壇し、奥羽越列藩白石会議と名付けパネルディスカッションを行なったりと賊軍魂というか負けじ魂というかそんなのが爆発したようでした。
 150年という時間は果たして人の感情、特に征服された側のそれは払拭させるに足る時間であるんだろうか、と改めて思う次第です。今の日韓問題・反日運動のタネ 韓国人の「恨」の感情を考えると成程なとうなづける事ありです。30年程前、会津と萩は敵味方の関係を無くしましょうと萩市側から会津若松市に申し入れた時がありました。しかし、会津は拒否しました。
 その当時、会津藩末裔の意見を市側が認め、破談になったとの記事を読んで負けた側の心情はそうなんだろうなと何となくわかりました。


 old間垣boyさんは「玄栄さんのこと」の“しんちゃん”の幼なじみです。第一信には「永沼家には古文書が保管されてましたから手紙などの類があればこれはまさしく大歴史ロマンだと思います。来年も興味深い話を期待しております。」とありました。

 今日は仕事納め、というか管理人には遊び納め。近所の神社で来年のお札をいただいて、TTさんに送っていただいた北野神社のお札と一緒に松飾の真似事をします。みなさまどうぞよいお年を。   (12/28)
 

■すみません。長いことサボってしまいました
 11月13日、長野から東京へ帰りました。もう1カ月が経つのですが、その間いろいろな病院の各種検査などプライベートなことが重なり、ようやくホッとしたら今日になっていました。
 12月初め、東京同級会のEОちゃん(横川)が死去。少し前から心臓の調子が悪くて入院していたそうですが、その間はNО君、E Iちゃんがたびたびお見舞いに行っていたそうです。私は見舞いにも葬儀にも出席できませんでした。
 12月初めの日曜日、NО君が見舞いに行くと、「足が冷たいから、靴下を買ってきて」と言われたそうで、むくんだ足に靴下をはかせて温めてあげたそうです。同級生はありがたいですね。

●山本五十六
 体調のせいかテレビを見ることが多くなって、12月8日は対米英開戦記念日、真珠湾攻撃の日。そのためか、NHKでは「日本の選択・山本五十六」「歴史秘話ヒストリア・特攻」などの番組がありました。録画して前者は見ましたが、「特攻」はこれからです。
 山本司令長官の考え方を聞いているうちに、だいぶ前にお会いして話を伺った海軍軍人NNさんの言い分を思い出しました。NNさんは航空機をを3機搭載した巨大な潜水艦「伊号401」の艦長だった人で、お会いした時は80歳を超えていましたが戦争当時の記憶は鮮明でした。
 この人に言わせれば「山本五十六の真珠湾攻撃は良くない作戦だった」そうです。
・奇襲なんかするから必要以上の憎悪が生まれた
・己の力を過信するようになった
・航空機の重要性を敵に認識させた
・振り上げたこぶしの収め方を知らないままやった
・従来の漸減迎撃作戦(米の艦隊が日本に近づいてくるのを待ち、少しずつ米艦隊を漸減し、最後に大和など巨艦・巨砲で艦隊決戦をする)のほうが成功の見込みがあったかもしれない
などなどの理由です。
 NNさんの日記には山本五十六司令官が戦死したニュースに接した頁がありましたが、この時もたいした感慨はなく、「ああ、そうか」と思っただけだったそうです。山本は名将で非戦論者だったと言われますが、見方はいろいろあるようです。
 NHKの番組では「山本は東の武士だ」という分析がありました。西の武士は負ける戦はしないが、北の武士は幕末の長岡藩や仙台藩のように、負けるとわかっていても突っ込んでいく習性があるそうです。
 戊辰戦争なんかもそうだったのでしょうね。薩長中心の新政府軍に仙台などの奥羽

 
玄栄さんの墓碑
 
羽生凌雲翁碑 長面墓地入口

越列藩同盟が逆らうわけですが、この情勢分析に活躍した人・羽生玄栄のお墓と顕彰碑が長面の龍谷院にあります。そういう人がなぜ長面に住んでいたのか謎なのですが、最近少しずつ分かってきました。

●羽生玄栄(はにゅう・げんえい)さんについて
 今年の5月ごろ、長面塩田の研究調査でおなじみのFSさんから「今年の私のテーマは『戊辰戦争と長面』です」というメールをいただきました。
 戊辰戦争時の“脱走”が長面・尾の崎で略奪を働いたことはこれまでも折々に触れてきましたが、FSさんの目論見は「戊辰戦争・新撰組と長面」だったように覚えています。長面にお墓と顕彰碑のある羽生玄栄(凌雲=りょううん、致矯=むねただとも)は戊辰戦争前の仙台藩の動向に深くかかわっていた人で、新選組ともなんらかの関係があったかもしれません。

 まったく偶然ですが、7月中ごろに「オリオンの星」に気になることが散見されるということで、永沼五郎先生の息子さんであるSNさんからメールでのお便りをいただきました。多くは大川の永沼家関連のことで、「まず、羽生凌雲が長面に暮らしていた訳」ということから始まっていました。
 ずぼらな管理人はお便りを頂いたまま、これまでロクなお礼をしないままで今日に至っており、改めて掲載のお願いをして、許しが出ましたら当サイトに掲載させて頂こうと思っています。
 玄栄(凌雲)さんが長面に身を隠した理由のほか、追波湾や長面がどんな地区であったかなどが分かりやすく詳しく語られています。
 さて、10月になってFSさんから「時事雑纂(羽生致矯編)のこと」と題するレポートが届きました。長面にある「羽生凌雲翁碑」の碑文について『大川村誌』や『河北町誌』の間違いを発見した経緯を記したものです。
 さらに12月に入って、宮内庁書陵部蔵マイクロデジタル版から羽生玄栄が「佐久間格二郎を庇する事」を発見した経緯が届きました。
※写真は龍谷院本堂に飾られていた玄栄さんの肖像。津波で流されましたが、しばらく前に登米町の禅の寺・玉秀寺の佐竹孝喜ご住職が撮影されたものがあって、それを送っていただいたものです。写真にある寄贈者の羽生春枝はナガコー(永沼孝次)さんの妹で、羽生家の養子になった方。
 佐久間格二郎は佐久間象山の遺児で、親しかった象山が殺害された時に玄栄さんが格二郎を寓居に匿ったことが、玄栄さんの自筆で書かれているということです。格二郎はその後、近藤勇を通じ、父の敵を討つために新選組に身を寄せたことはいくつかの資料に書かれているそうですが、それに先立つ3日間を玄栄さんが匿っていたことはあまり知られていない事実のようです。
 これらの詳しいことは近々ページを改めて、掲載させていただこうと思います。ご期待ください。
 なお、FSさんのお便りに右のチラシが同封されていました。
恒例の「国立市民オーケストラ」の「2020年ニューイヤーコンサート」のお知らせです。詳細はチラシを拡大してご覧ください。FSさんはヴィオラを弾いていて、この年末はかなり忙しそうです。
◆拡大写真へのリンクが不調でしたが、なんとか復旧しました。              (12/13)
 

■福地の水害画像がカナダから
 久しぶりにカナダ・トロントのモガール和子さんからメールをいただきました。そしてなんと福地の水害の写真が添付されていました。しばらく連絡が途絶えていたのは、たぶんオリオンがクラッシュして閲覧不能になったためと思われます。すみませんでした。
 モガールさんのメールは以下の通りで、相変わらず郷土愛にあふれていました。

 お久しぶりですがお元気でしょうか。  こちら、トロントは月曜日と木曜日の早い雪景色に戸惑っております。

 ところで、サイトで台風19号の投稿を読みました。添付の写真は福地に住む妹の所からのものです。 妹の家は床下だったようですが、隣の倉庫などは浸水被害にあったそうです。手前の池にいた鯉たちもどこかへ行方不明。写真の奥に見えるのが石巻市立大川保育所です。


 仙台に住む大川中学校の同窓生からのメールでこの様に書かれていました。
 「台風19号の被害の実態が見えてきました。 被害浸水家屋。宮城県18000戸。石巻市 9500戸、渡波。不動が多い、福地も含まれる。
 渡波地区では、防潮堤が壁となり、住宅地に大雨が溜まって(海に流れず)浸水という様な馬鹿みたいな報道もあり。津波と大雨、二重被害の実態も。」

 2014年(?)の大雨で妹の所は床上浸水で、家具やピアノが濡れたという話しを聞きました。何度もの水害や311の被災で、地域の人たちの気持ちを思うといたたまれません。
 ちょうど一年前に実家のあった長面と尾の崎を訪れました。危険地域で住民は住めない場所だと理解していますが、あの何メートルもの高さの防波堤(防潮堤)。尾の崎で牡蠣養殖をしている方が、おらほでは長面の防波堤の高さはいらねがらと、少し低めにしてもらったんでがす。との事。塩田から尾の崎に架かるとてつもない高さのコンクリートの橋は必要不可欠なものかと首を傾げてしまいました。 行政のやることは???ですね。

 オリオン311で同じ故郷の人達が人達が情報を分かち合い、繋がっていることに感謝です。どうもありがとうございます。これからも健康に留意されて、ますますのご活躍を期待しております。
  かんこかな

 メールは以上で、写真はたぶん福地の妹さんから送られたものを転送していただいたのでしょう。福地の写真を撮ってくれる人がいないかなあ、と思っていたところでしたので、貴重な記録になりました。ありがとうございます。
 長面の防波堤については誰もが疑問を感じるもののようですね。参考までにこちらにも長面の堤防の写真がありますのでご覧ください。      (11/16)

■今年も早11月、二子団地からのお便り
 尾の崎のKKさんから久々に便りをいただきました。「尾の崎の」といっても、しばらく前からは石巻市二子の住人です。

 11月になりました、早いものですね。
 今年はクルミの粒が大きくて豊作、馬っこ山、天王橋下の河川敷などから随分拾い知り合いにもお裾分けして喜ばれてます。アケビは春先見事な花を多くつけたのですが、私が知るアケビの木はほとんど実をつけず、やっと自分で味わい、ほんの少し友人にあげたくらいでした。
 大雨の後、友達に乗せてもらい横川針岡,芦早の惨状を見てきました、針岡のSKさん宅、裏の沢には育ちざかりの杉が根っこぐるみ何本か流れて来て横たわってました。

 過日、初敬老会に行ってきました、大川小卒同級生は、長面の住職夫人、T大工さん夫人など河北管内には10人ほどいるようですが、出席は私とМО君の二人だけでした。胸にリボンをつけられ、緊張して一番前に座ってきました、なんとも、トホホではあります。
 この5日に松島で喜寿を祝う同級会があり、МО君が幹事を務めてくれ20名くらいの出席者だとか。私は私事あり残念ですが✕です。

 Sさんご夫妻ともすぐ近くだから時々会います、JTさんのお姉さんといつもお会いしてます。本当にいつも穏やかな笑顔の絶えない素敵な方です。
 駄文投稿はこの頃連戦連敗です。川柳は細々と相変わらず石巻日々新聞さんにお世話になってます、寒くなってきましたどうぞご自愛を。


 KKさんは大川中昭和32年度卒。文中の「駄文投稿」とは、感性豊かなエッセーや懸賞文が地元紙などにしばしば取り上げられていましたが、最近はあまり調子が出ないということらしいです。お得意の川柳は今も『石巻日日新聞』をにぎわしているようです。 クルミやアケビなど尾の崎、長面、雄勝などの方々が集まっている二子(復興住宅団地)周辺の自然、それに二子団地内のほのぼのした連帯が読みとれるお便りでした。
 JTさんは管理人の同級生で尊敬する長面の重鎮でしたが、惜しくも津波で亡くなりました。返す返すも残念なことでした。     (11/3)

■台風19号の被害、一級下(大川中昭和31年度卒)の諸氏の消息
 KKさんの便りと時を同じくして、FSさんからオリオンの台風に記事に驚いたというメールが届きました。

 昨日、オリオンを読みビックリし、YT君(長面・石巻)にメールで同級生の安否を尋ねました。
 YT君情報によりますと、
・蛇田のMYちゃんは被害無し。
・福地のKO君は大丈夫。(山際の住宅のように聞いていました。)
・横川のESちゃんは、床上浸水し畳を上げたので大丈夫、町が浸水し大変、とのことで
す。
 以上、11月1日付YT君情報です。


 遠くにいる方はそれぞれ友人知人の心配をしていると思います。折にふれて情報交換ができればいいですね。
 FSさんからは、しばらく前に長面に住んでいた幕末の著名人羽生玄栄(凌雲、致矯とも)についての力作レポートが届いていますが、これについては項を改めてふれたいと思っています。       (11/3)
  

■大川地区に台風19号の大被害
 いささか旧聞に属しますが、台風19号の雨は大川地区にも大被害をもたらしたようです。一番の被害は福地・横川地区のようで、震災でも家屋などには被害が出なかった地区なので、まさかと思いました。横川・福地の70数戸中、床上浸水にならなかったのは7戸だけとかで、福地のいちばん奥の山際にあるYHちゃん宅はあと数センチで床上に上がるところだったそうで、福地で床上に上がらなかったYHちゃん宅とお隣だけだったそうです。
 所用があって石巻に行ってきたのですが、10/25は台風21号で一日中大雨にたたられたものの、翌日からは道路はどこも障害がなく、19号の雨についても大きな被害は予想してませんでした。ただ、蛇田の兄貴宅は床下浸水で車も廃車とかで、玄関にはまだ段ボールと新聞紙が敷かれてました。
 で、長面のお墓の行き帰りに福地小学校を横目に通りましたが、テレビで見る千葉や長野の被災地のガレキ置き場とそっくりの状態になっていて、学校がゴミ置き場になったんだろうかと不思議に思いました。横川の通りはすでにきれいに片付いていて、冠水の面影はありません。事前に知っていれば冠水の跡などをチェックしたかもしれません、福地の小学校の写真も撮ったと思いますが、SF君も散歩ができるほど元気になったそうだけど良かったなあなどとKS君の言葉を思い出しながら通り過ぎました。
 そのKS君の針岡も、KS家はかなり高い所にあるものの、富士沼があふれて相当数が冠水したようで、かなりの被害があったそうです。もちろんしばらくは針岡は陸の孤島状態だったそうです。
 間垣の慰霊碑に形だけお花を上げ、大川小に。大川小学校はなんとなく観光地化したような感じでバスが何台か。慰霊碑はどこかに移転されているようで見えませんでした。
 長面のお墓で北海道屋の親戚という方に出会い、TAさんのお話など少ししました。TT君が長面浦で仕事をしていることが多いので、携帯に電話してみるといま油壷でカンツカを焼いているとのこと。足が痛いので大堤防を越えるのもシンドイと、油壷から船で漁協まで来て、軽トラで龍谷院に来てくれました。ありがとう。
 待つ間、仕立屋さんや北海道屋さんの話など諸々世間話をして、羽生家の墓、玄栄さんの墓に参ったりしているうちにTT君が到着。長面の慰霊碑の前に腰かけて近況と世間話。台風19号は海も二子団地も特に異常はなかったが、「千葉や長野の危ない川に堤防を作ればいいものを、なんでこんな人の住めない長面に堤防を作るのかな。ちゃんとした政治家はいねぇのがな」とひとしきり。
 帰りの車中でYHちゃんに電話してみましたが、通じないので通り過ぎました。その夜電話があって、福地・横川の状況を聞いたのですが、家への道も前は一本道だったのが迷路のようになっているそうです。以前はサケが遡上する小川をコンクリートで整備したために、一挙に山の水が駆け下ったのかなあ、と言ってました。この状況はKS家の前の水路も同様のようです。
 被害は家屋の浸水だけでなく、収穫したばかりのお米や家畜にも及んでいるようです。人命にかかわることはなかったようでなによりですが、老人世帯が多い現状では、これからのご苦労が心配です。       (10/30)

■スーパー台風、スーパー堤防
 台風19号の被害状況が明らかになるにつれ、これまでにない惨状に胸が詰まります。東日本大震災に比べれば数の違いはあれ、個々の苦しみと悲しみは同じでしょう。今度の台風は管理人個人にとってもちょっとした体験だったので、時系列はちょっとあやふやですが、少し詳しく書いてみたいと思います。
 
●台風直前の稲刈り
 10/11、大川小の賠償訴訟の判決が確定、「天災も善と悪とで決まるのか」と、不思議な感慨を持ったところで、近くの知人の田んぼで稲刈りが始まりました。明日は台風が来るとかで、晴天のうちに終わって良かったとホッとしました。4反部ほどの田圃一枚が、コンバインで1時間ちょっとでした。今年はハセ掛けもなく、あっという間でした。
 そういえば針岡の米農家KS君のところも台風前に刈り入れが済んでいればいいがと電話してみました。今年は飼料米と合わせて10数ヘクタールだったと思いますが、KS君の所もリスタ大川も少し前に収穫は終わったそうです。出来はまあまあとのことでなによりです。
 「もう80だど、一人でそれだけやるなんてすごいなあ」
 「いや、機械がやってくれるし、いろんな人に手伝ってくれるから、なんとかだよ」
 「こっちは何をしなくてもコエくてだめだ。座っているとすぐ腰が痛くなって、寝転がりたくなる。で、すぐ眠っちゃうんだ」
 「みんな同じだよ。朝飯食ってひと寝して、昼めし食って昼寝して、それでもコエなあ」
 「まあ、無理をしないでボチボチやるしかないね」」

●台風襲来
 などと話した翌日
 「長野にも大雨特別警報が出たね。降ってる?」とKS君から電話。
 「昨日の午後からすごい雨が降り出して、いっこうに止まないんだよ。風も出てきたので、東の雨戸を閉めたところだよ」
 「そうか。じゃこっちも明日だなあ」などという話をしました。
 この小屋の東の雨戸は何年も閉めたことがないので、引き出してみるとなんだかわからないふわふわしたゴミが東風に乗って部屋中に飛散。それでもその夜の風よけには役立ってくれました。
 この小屋は私がまだ30代のころ、アウトドアの遊びのついでに、いたずら半分つくったもので、なんとか雨風をしのげる程度の代物。強風で屋根が飛ばないかと戦々恐々でした。でも何とか今回も持ちこたえてくれました。
 冗談交じりに書けるのはここまでで、12日の深夜のテレビは千曲川をはじめ、多摩川などあちこちの河川氾濫を伝え始めました。小屋の周囲はようやく雨がやんで、次第に西風が強くなりましたが、詳しいことはわからないまま眠りにつきました。

●河川氾濫のニュース
 13日朝、幸い雨漏りもなかったので、外に出て小屋を一周。たいした異常はありませんでしたが、北側の軒下のボードが少し古くなっているを発見、これは近々直すことにしました。
 テレビをつけると福島・鏡石の氾濫のニュース。鏡石にはTN君がいるので、少したってから電話してみました。幸い冠水した地区は車で10分以上離れたところで、TN君のとこは異常なしとのことでした。畑を見回ってきたところだそうで、腰は痛いものの元気とのことでした。1年生のお孫さんも元気だそうです。
 KS君にも電話して雨はどうだったかと聞くと、降雨量の多かった雄勝の雨が硯上山にも降って、それがそのまま家の前の小川をゴーゴーと流れ、大きな石がゴロゴロと流されてくるので夜中じゅう、その音が怖かったそうです。またその水で富士沼があふれ、針岡から県道へ出る道が冠水しているため、針岡は陸の孤島になっているとのことでした。
 その後のテレビはあちこちの河川氾濫のニュースばかり、でっかい堤防のある多摩川の氾濫などは想像もしてなかったので、玉川の被害にはいささかビックリ。長野の千曲川の佐久市、上田市、長野市も深刻で、これも予想していなかったので驚きました。
 堤防には氾濫に強いスーパー堤防というのがあるそうだけど、長面のあのどでかい堤防がスーパーなのかな、などと思いながらテレビを見ていました。私の所から佐久市も上田市もそれほど遠くはないですが、そんなに近くもないので危険はありませんでした。
 御代田(みよた)という町がどこにあるか知らない知人から心配してますというメールがありましたが、大丈夫です。経験したことのない巨大な台風ということで、御代田町のハザードマップを見ようとしましたが、水害、風害の関連はほとんどなく、大半が浅間山の噴火の際のハザードマップでした。
 全国各地の堤防がこれほど脆弱なら、人が住まないことになっている長面なんかにあんな堤防は作らず、荒川や玉川、利根川に作ればいいのにと思います。
 それはともかく被災された方々の心痛はいかほどかと思いますが、今後のご奮闘をお祈りいたします。    (10/15)
 

■長面(ながつら)の近況あれこれ
 原子力発電には建設、運営保守、事故の後始末などなどしっかりした情報公開がないので、何かうさん臭さが伴なうが、関電の経営幹部のメチャクチャぶりには驚いた。そんなことに気を取られているうち、いくつか長面の近況が届いていました。

●アンバサンが石巻市の無形文化財に指定
 長面(長面)の北野神社に合祀されている「大杉神社のアンバサンが、石巻市の無形文化財に指定されましたよ」というお便りが「写真集 2019長面」を撮影していただいたYTさんからFSさんにあったそうです。
 アンバサンは長面で育った年配の方はご存知でしょうが、毎年2月8日に行われた大杉神社のお祭りで、輪切りの大根に鍋や釜のススをたっぷり塗り、見かけた人の顔に誰彼かまわずその墨を塗りつける行事です。
 管理人も子供のころ、TN君などとやりましたが、女性などはキャーキャ―言って逃げ回るので、あまり成功しませんでした。でも墨を塗られることが無病息災につながるというので、公認の大騒ぎで楽しい祭りでした。
 文化財指定のいきさつなどは『石巻日日新聞』や『河北新報』にありますので、「石巻市 アンバサン」のキーワードで検索してみてください。

●<写真集 長面2019夏>にたくさんの反響
 アンバサンのニュースを知らせてくれたFSさん、YT(ヨッチャン)さんは管理人より一つ下の同級生ですが、<写真集 長面2019夏>のことを多くの同級生や皆さんに知らせていただいたようで、たくさんの反響が寄せられています。以下、その一部をご紹介させていただきます。右は<写真集 長面2019夏>(こちら)の中の1枚で、長面の街の中心地です。

・オリオンのページを見ました。様変わりした長面に感慨無量です。(FSさんの妹さん)
・故郷をそっとしておいてほしい。自然な形で残してほしい。見なければよかった。(ヨッチャンの妹さん)
・開発を止めてくれる政治家がいないものだろうか(ヨッチャン)
・尾の崎橋の大きさにビックリ。(尾の崎出身KS君)
・嫁さんにページを出してもらい見ています。ふくうらとか神社も山も川(海)も懐
かしいです。(釜谷出身HSちゃん)
・夫にパソコンで見せてもらっています。ここ、どこだっけ?と懐かしんでいます。
(長面出身KNちゃん)
・ヨッチャンの写真を拝見。記憶の中の長面とはほとんど重なりません。喪失感が深
いです。あの巨大な橋は何のためでしょうか。復興当局はこの地域をどんな地域にし
ようとしているのか、知りたいところです。(長面出身KT君)

 そしてFSさん自身の感想
・住民がいないので、大型開発のし放題なのではないかと危惧しています。一応、復
興庁の事業計画・海岸対策に基づき、追波湾の堤防高「8.4メートル(対象:明治
三陸地震津波)」を基本に、環境保全、周辺環境との調和、経済性等々を総合的に考
慮して決定されたものらしいです。「尾の崎海岸線道路災害復旧工事」と尾の崎橋建
設が関係あるのかどうかはわかりません。(長面出身FS)

 ヨッチャンは尾の崎の同級生KSさんにも電話されたようですが、KSさんは時々オリオンをチェックしていて写真も見たとのことでした。そしてKSさんは巨大な尾の崎橋に相当衝撃を受けていて、いつもより口数が少なかったということです。

※FSさんから
2年後は、3・11から10年になります。
それまでみんなが元気に生き延びていられたら、変貌著しい長面・尾の崎の写真を、またオリオンに載せてもらえないかと思います。
管理人さんにはご苦労おかけします。
※管理人から
あと2年……。皆さまもなんとか元気で……。

●9月29日、長面のお神楽が盛大に
 例年、9月の最終日曜あたりに長面のお神楽が開かれることになっているようで、今年は9月29日に盛大に行われたようです。МSさん(石巻市二子、長面)から次のようなお便りがありました。
 「今日は東集会所(石巻市二子の長面・尾の崎・雄勝の皆さんの集団移転地)が完成してから、初めてのお神楽がありました。庭も広いので、観客もたくさんで、とても盛大な祭りです。腰掛けもかなりたくさんあるのですが、遅く行ったせいか、座る場所がなく、一時間半立って見学して帰って来ました。夜は9時までだそうです。大蛇の退治をジックリ見たのは、久しぶりでした。TTさんは太鼓叩きを卒業したらしく、観客の中にいましたよ。」
 МSさんは少し前までの北野神社の氏子総代ASさんの奥さまで、震災翌年からのお神楽復活に尽力された方です。МSさんは、神楽復活最初の写真などをたくさん送っていただくなど、たいへんお世話になりました。管理人は東集会所を知りませんが、たぶん高橋宮司が建立した遥拝所のある公園だと思います。アンバサンもそうですが、長面の神楽の存続、出雲大社など各地での講演など、高橋宮司の長面を思う心の表れかと思います。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。
 29日に神楽のあることは同級生のTT君に聞いていたのですが、予告記事をここに書くのを忘れていました。TT君は長面の神楽師ですが、数年前から「足が痛てくてダメだから」」と舞宇野はやめて、太鼓とジゴトに活躍してました。今年は五十肩とかで太鼓の方も中止しているようです。五十肩は治ることも多いので、またの活躍を期待しています。震災翌年の仮設集会所での神楽(こちら)冒頭の写真はTT君が舞う釣りの翁、演目『蛭子(ひるこ)』、ほかМSさんが送ってくれた写真も見ることができます。
  (10/3)
   

■ブルーシートの屋根
 テレビでしか見ていませんが、台風が直撃した千葉ではブルーシートに土嚢を乗せた屋根がたくさんあります。10数日後の17号の強風では凧のように舞うシートが何とも気の毒です。屋根が無ければ住宅とは言えず、青天井のもとで寝食を続けざるを得ません。カビの繁殖も激しいようです。一日も早く、津波と同じように緊急避難場を設け、仮設住宅を提供するべきでしょう。
 ブルーシートと土嚢の風景を見て思い起こすのは、100前の田舎の風景です。管理人が塩田に住んでいたのはおよそ60~70年前ですが、この住まいは杉皮葺きの石屋根でした。
 石を置いた屋根など最近の方は見たこともないでしょうが、この住宅は長屋づくりのバラックで、杉の皮を何重かに並べた上に飛ばないように石の重しを乗せた塩田従事者のための宿舎でした。

 
 

 疎開家族で住むところない我が家が、それまでの永沼本家の中間部屋から、なんとか自前の家らしきものを持った初めです。まあ、ともかくみすぼらしい家なので、恥ずかしかったのでしょう、あまりいい思い出はありません。でもまあ、あまり気にはしませんでした。どこかに我が家の石屋根が良く写った写真があるはずですが、見つからないのでネットで石屋根の写真を探してみました。出典は『日本の古鎮☆①木曽奈良井宿編』(こちら)です。この屋根はもっと高級な檜皮葺(ひわだぶ)きと思われますが、雰囲気は似ています。
 なんでこんな話を持ち出したかというと、1912(大正元)年に発表された『南小泉村』という小説に宮城県の当時の農民の生活が詳しく描写され、「民家の屋根は杉皮で葺かれ石が乗っていた」と書かれているからです。。
 
●100年前② 真山成果 『南小泉村』の農民
 真山成果は私は劇作家だと思っていたが、自然主義作家だそうだ。農民文学の『南小泉村』は
百姓ほどみじめなものは無い、取分け奥州の小百姓はそれが酷い、襤褸を着て糅飯を食って、子どもばかり産んで居る。……」で始まり、徹底して当時の農民の生活や考え方を批判している。当時の村々の風景は
 ・民家の屋根は杉皮、石が乗っている。
 ・卵が最高の栄養食品、味噌・醤油は自家製。
 ・よそ行きには下駄をはき、ふだんは藁草履が一般的。
 ・車といえば人力車でエリートの乗り物だった。
 ・大きい川には渡し守がいた。
 ・無医村は当たり前。小説の主人公は代診(医者の代理)として南小泉村に。
 ・どこの町にも鍛冶屋があった。
 ・村のボスは水車小屋、米屋をやっていた。
などなど、管理人が小学生ごろの大川村もよく似ていたと思います。村のボスが何屋さんかはしらないけれど。
 南小泉村は仙台郊外の寒村と紹介されていますが、今は仙台市若林区南小泉で、寒村どころではない仙台の中心部です。私の記憶には仙台一高や聖ウルスラ学園などがあり、芥川にあこがれて自殺した一高の友人の家もありました。その南小泉ですら100年前は上記のような寒村だったのです。

 ブルーシートと土嚢の屋根、石の屋根ということで、我が家が塩田に住んでいたころのことを思い出したのだが、大川の100年前はおおよそ南小泉村と似たようなものだったかもしれない。民家の屋根については詳しく覚えていないが、釜谷の数軒や長面の一部は茅葺だったが、ほとんどはスレート葺きではなかったかと思う。瓦屋根は新しい家の一部だったように記憶している。
 屋根を飛ばされ、電気のない生活を千葉の人びとは余儀なくされたが、100年前の生活に近いものだったと思う。
 塩田に住んでいたころ、台風か何かで屋根の一部を飛ばされた記憶がありますが、どんなふうに修理したかは思い出せません。ブルーシートはまだなかったはずだから、ムシロやゴザなどを利用したかもしれませんね。あるいはどこか親類に身を寄せるとか。      (9/24)

■オリオンの検索キーワードは「オリオン311
 管理人の手違いで一時「オリオンの311の星」の内容がすべて見えなくなったりしたことがありました。Yahooのサーバーが閉鎖されたり、新しいサーバーへの内容移転に時間がかかったりしたためです。誠に申し訳ありません。
 ところで、ここに書いてもあまり意味がないのですが、スマホでオリオン311をご覧になっている方もたくさんおられると思いますが、最近、スマホだとオリオン311の写真が見えないというご指摘があったそうです。
 管理人はスマホのことはあまり詳しくありませんが、ページをつくる時にはモバイルでも見られるようにするというチェックはしています。何か不都合がある時は、オリオン311のトップページwww.orion311.com/ から各項目をクリックすると全部見られると思います。
 オリオン311がなかなか見つからないときは、YahooでもGoogleでも「オリオン311」と検索していただくと、「オリオンの311の星」がヒットすると思いますので、お試しください。
 ただ、残念ながらスマホだと「大川音頭」「お神楽のジゴト」などの音だけを収録したものは肝心の音が出ないようです。何か改善策を講じたいと思いますが、お知恵がありましたらお貸しください。     (9/19)

■ぜひご覧ください 写真集<長面(ながつら)2019夏>
 下のような経緯(こちら)で、長面の今年の夏の現況を写真で特集することができました。FSさん、YTさん(昭和31年大川中卒の同級生)という長面愛の強いお二方のおかげです。
 FSさんは皆さんもご存じ長面塩田の研究で以前からお世話になっていましたが、YTさんは今回初めてご紹介いただいた方です。生家は長面のシモの方で、管理人と同級のKS君家に近いところだそうなので、あるいは私も小さいころ何かで一緒に遊んだりしたかもしれませんが、覚えていません。YTさんは私の兄のことは覚えているそうです。
 さて写真は、FSさんの要望でわざわざ天気の良い日に長面まで出張っていただいて、丸一日(もっとかな?)を費やして、超精細に誰にも記憶のある場所を選んで撮っていただいています。
 長面の家々の海辺はいつ思い出しても印象深い風景ですが、今は右のように途方もない堤防(YTさんの表現は護岸)になっています。写真をクリックすると大きくなりますが、もう一度クリックするとさらに精細に遠方も見えます。
 こうした写真が写真集<長面 2019夏>(こちら)に44点あります。どうぞごゆっくりご鑑賞ください。架け替え中の尾の崎橋にも度肝を抜かれます。終りの方は尾の崎の弘象山を超えた裏の名越海岸の写真がありますが、YTさんはここのことを「なんとなく心なごむ時間でした」とコメントしています。雲と海と山は震災後も変わらず静かにたたずんでいるからでしょうか。それと名越の砂浜は、規模は小さいですがかつての松原海岸を偲ばせます。

 お二人にはチェックを兼ねて事前に見ていただきましたが、FSさんからは
「圧倒されました。私が一番感動したのは、空と雲の色、YT君はダークブルーの海の色だそうです。失われた街の写真を見てガッカリし立ち上がれなく人がいやしないかと心配もしましたが、長面のYT君が意外に平気ですから、ほかの方も大丈夫でしょう」という感想をいただきました。
 そうそう、FSさんはYT君に
「オリオンは営利目的のサイトではないので、謝礼が出なくてゴメンね」と言ってくれたそうです。するとYTさんは
「何を言うのっしゃ、みんなで協力してサイトを盛り上げればいいんでねぇの」とおっしゃってくれたそうです。
 YTさんは
「いつか機会があったら、十三浜側から長面方向を撮ってみたい」ともおっしゃってましたが、またまたノーギャラですが、どうぞよろしくお願いいたします。    (9/15)

■暑い暑い9月
 9/9に千葉付近に上陸した台風15号、この風は相当強かったようで、千葉ではいまだに何十万戸が停電しているという。台風の後はすごく暑くなったので、クーラーも扇風機もない生活には心からお見舞い申し上げます。
 娘や孫が千葉の我孫子にいるので心配したが、ここは何事もなかったという。ただ同級生が何人か千葉の停電地域にいるので、本当に心配です。なんとか頑張ってください。3.11の地震と津波、原発事故と、電気のない生活はたいへんだが、元凶は地球温暖化でしょうか。
 阿部内閣の組閣があって、小泉進次郎氏が環境大臣だそうだが、地球温暖化対策や原発事故の後処理など、あ、それにプラスチック問題など、きちんとやるべきことをやってほしいと思う。

 写真集〈長面 2019夏〉のお知らせ
 3.11から8年、今の長面がどうなっているかについて地元の長面の方(旧石巻市内在住)から多数のすばらしい写真が届きました。いまオリオンに「写真集<長面2019夏>」というページを編集中です。近日中に完成予定ですが、出来ましたらお知らせしますのでご覧ください。
 長面塩田の歴史などを研究しているFSさん(東京国立・長面)から「現在の長面の写真でどこかほしいところがありますか」という問い合わせがありました。で、50年ぐらい前に私が結婚して初めて長面に帰った時、八雲神社の裏の山から長面、長面浦、弘象山などが写った写真を思い出し、「長面の海辺や弘象山写った写真が撮れないだろうか」と相談しました。
 長面も尾の崎も、民家と浦海とのつながりがとても印象深く残っていたからです。それと尾の崎橋が付け替えられるという話も聞いていたので、そのあたりも含めて何でもくださいと返事しました。そして9月に入って間もなくたくさんの写真がFSさんを通じで届けられたのです。
 撮影者はFSさんの長面の同級生で、高橋幸男(愛称ヨッチャン)さんという方です。ヨッチャンは私の50年前の写真を見て、わざわざ八雲神社まで登って撮影場所を探したそうですが、樹木が大きくなって長面・尾の崎を見渡す写真は撮れなかったとおっしゃってました。
 写真集<長面2019夏>では冒頭の八雲神社から撮影順に並べてみようと思います。ヨッチャンは北アルプスなど登山が趣味で、その際に愛用するビデオカメラをカメラに切り替えて今回の撮影をしてくれたそうです。
 精細な写真からは長面、尾の崎の息吹き(往時の面影のようなものはまったく無いのですが)が伝わってくるようです。ぜひご覧ください。
 もっとも、HP制作ソフトが以前と変わったり、サーバーが変わったりしているので、スムーズにいくかどうか、ちょっと不安なのですが。なんとか週末あたりを目指します。          (9/11)
 
■終戦の日
 毎年、終戦の日(8/15)はなにがしかの感慨を持って迎えます。今年の8月15日夜は、NHKスペシャル『全貌2.26事件』に引き込まれました。
 もともと2.26事件には興味があって、松本清張の『昭和史発掘』を繰り返し読んだりしてましたが、NHKが発掘したという新資料は、これまで無関係とされていた海軍が分刻みで事件の推移を記録していたこと。事件の1週間も前に決起部隊の将校の実名、クーデターの目的、攻撃対象を詳細に把握していたこと。
 それに海軍陸戦隊の出動計画などが詳細に記録されていることに驚きました。
 2.26事件は昭和11年のことで、このころ父は33歳、海軍の陸戦隊に所属していたこともあって、なおさら身近に感じられました。父の当時の乗艦名など詳細は分からないのですが、その前年の第2次上海事変の際に市街を行進する父の部隊写真があったりして、たぶん2.26のときも陸戦隊に属していたと思われるのです。
 今年は財務省の文書改ざんなどがありましたが、記録の大切さを改めて認識させられた番組でした。記録を保管していたのは当時の軍令部部長・富岡定俊少将だそうですが、この人には『開戦と終戦』という著書もあるのに、なぜこの記録を秘密にしていたのか疑問です。
 結局は2.26のようなことが昭和の戦争を招いたのですから、その責任を陸軍だけに押し付けようという思惑だったのでしょうか。

 しかしまあ、あの戦争が無ければ、私も長面に疎開することもなかったわけで、今になってみれば素晴らしい人と自然のふるさとをありがとうと思う昨今です。    (8/16)    

■浅間山の噴火
 昨夜(8/7の夜)、浅間山が小さな噴火を起こしたという。私が夏の間、近くの御代田(みよた)町という所にいることを知っている何人かの方からお見舞い?の電話をいただいた。ありがとうございました。
 浅間山はいつも噴煙を上げており、小さな噴火はたびたび起こるので、あまりビックリもしませんでしたが、テレビの赤い噴煙と夜なのにハッキリした噴煙には少々驚きました。
 畑の小屋は火口から8㎞ぐらいあるので、音もしなければ降灰もなく、平穏なものでした。それよりテレビの速報から少し遅れて、「みよた町防災です」という拡声器の放送があり、何年か前の北朝鮮のミサイルに対してのJアラートが思い出されました。
 原爆の日や終戦記念日を控えて、北朝鮮、韓国軍、それにホルムズ海峡など何やらきな臭い昨今ですが、なんとか世界中が平穏にこの夏を過ごせればと願っています。
 それにしても暑い日が続きます。もうお盆ですが、お盆を過ぎれば少しは和らぐでしょうか。このところ小屋の周辺は夕方になると激しい雷と雨がやってきて、これが過ぎるとぐっと涼しくなるので助かってます。今年のお盆も田舎には帰れません。遠くから往時のことどもを偲びたいと思っています。   (8/8)

■梅雨はまだあけない?
 一昨日あたりから長野のここは、わずかだが陽がさす時間があって、昨日は朝から半日以上陽がさし、初めてカナカナの声を聞きました。昨年は6月中はろくな雨も降らず6月末には梅雨が明けて、おかげて畑の豆類などはよく育ってくれました。
 今年は畑はズーっとビショビショで、豆の生育は未だにヒョロヒョロ、雑草をとる気にもなれません。
 意気消沈してぼんやりテレビを見ていたら西日本は梅雨明けの模様だという。と思ったら10年1日のごとき参院選(それでも東京へ帰って投票してきましたが)、京アニというアニメーション会社へのテロとも思える放火事件、お笑いタレントの笑えない掛け合い漫才、テレビ桟敷でおかしな世の中だなあと思う日々です。梅雨はまだまだあけないそうで蒸し暑い日が続いています。
 変なニュースが一段落したと思ったら、オリンピックまであと1年ということでテレビは大騒ぎ、いつも思うことだが、今の日本にオリンピックを開く余裕などあるのだろうか。
 原発の廃炉作業はさっぱり先が見えないし、汚染水の処理も除染(移染?)の土もそのままだ。スポーツ競技そのものは見たいと思う(池江璃花子や萩野公介が復活すればなお最高だ)が、開催国になんてならなくていい。
 なんか日本という国から田舎の隅々まで、イベントだらけの生活になったみたいでうそ寒い。腰が痛くて雨に閉じ込められている老人の繰り言だが、ふだんの生活をのんびり楽しみたいと思う。

●雄勝分浜・高源院の鹿
 暇に任せてというわけでもないけど、久々に大崎の真源寺МSさんに電話してみた。今日は雄勝・分浜の高源院に出向いているということで不在だったが、夕刻、分浜の現況などを伺うことができた。
 分浜の高源院は津波からの復旧が果たされているのだが、住民が激減して鹿が猛威を振るっているそうだ。津波から急斜面の小径を登って避難した裏山が、草はもちろん樹木や竹がすっかり鹿に食い尽くされて、禿山になって土砂も流れるせいで大きな石が露頭し、それに鹿が乗るものだから、崩れそうで危険だったという。
 鹿というのはすごいもので、毒があるはずの水仙や庭木などもすっかり食べ尽くしているそうで、少し前に電気柵を敷地に設けて、今回その様子を見に行ったのだという。
 何日か前、雄の鹿が大きな角を電気柵に絡ませて動きが取れなくなり、檀家の方が役場に連絡して処分してもらったという事件もあったそうだ。
 分浜の高源院ではご詠歌の会も続いているので、月に一度は通っているというが、震災後の集落の変化がひしひしと伝わってくるお話だった。
 ご詠歌の会は長面は龍谷院で、大崎に近い檀家さんは真源寺で続けられている。      (7/25)
 

■代掻きのこと 補足
 管理人は4歳でおふくろの実家のある長面に疎開して、仙台の高校へ行くまで10年ちょっとしか長面での生活はなかったが、この10年ほどは人生の中で最も懐かしく鮮やかな記憶に彩られている。
 たった10年ちょっとの私がそうなのだから、ずっと長く大川の地で育った方々はその想いは私の比ではないだろう。先祖の一人一人が何百年という時間をかけて、木製のクワ一本、スコップ一丁から拓いてきたふるさとが災害とはいえ瞬時に消え去り、ゼネコンの重機に破壊しつくされている姿はほんとうに悲しいことだと思う。   (7/9)

■100年前① 代掻き(シロカキ)のこと
 ミヨタの畑の周囲はほとんどがレタス畑ですが、近くに三反部ぐらいの水田を一枚作っているKIさんがいて、この方から面白い話を伺った。KIさんはミヨタ町の町会議員で、3.11の直後には大槌町へボランティアに駆けつけるなどした人です。
 KIさんの米づくりを見ていると、三反部ぐらいの耕作は朝飯前のようで、冬の耕起、春の代掻き・田植え、秋の稲刈り・脱穀などもだいたい数時間で済んでしまう。機械化といっても自分の農機を持っているわけではなく、親戚と共同であちこちの田んぼを耕作しているそうだ。
 管理人とほぼ同年代の人なので、
「昔に比べたらずいぶん楽になったものですね」というと
「いやー、ホント昔はたいへんだったよ」と代掻き(シロカキ)の話をしてくれた。


機械での代掻き風景
 
マンガ(馬鍬)
 
牛での代掻き
 
馬での代掻き
※著作権フリーの写真をお借りしました 

 代掻きというのは鋤(スキ)で起こした田んぼに水を引き、田んぼの泥を細かく砕いでドロドロにすると同時に、田んぼ全体を平らにならすことである。雑草を土中に埋め込んだり田植えを容易にしたり、漏水を防いだりするためである。
 昔は大きな櫛(クシ)のお化けみたいなマンガ(馬鍬)というものを、人力で押したり引いたりして行ったらしいが、畑や田んぼに牛馬が使われるようになって代掻きも牛や馬にさせるようになったという。
「私が田植えを手伝うようになったのは10歳ぐらいのときで、さすがに人力で代掻きをしたことはない。初めて代掻きを手伝ったのは牛の鼻ずら引きだった。」とKIさんは言う。マンガを引く牛を誘導する役目である。
 管理人も長面にいた子どものころ、牛や馬の代掻き風景をよく見た。といっても疎開家族の我が家には水田はなく、田植え時期の田んぼに入ったことはない。しかし、泥田の代掻きはしんどそうで興味津々だった。
 KIさんの話の面白いのはここからで、
「それでもまあ、牛の時代は鼻づら引きものんびりしてて良かったよ。ところが牛が馬に変わると大変だった。馬の脚は早くてね、追いまくられて大変だったよ。あれは疲れたなあ」と実感のこもった思い出を話してくれました。
 昔、長面でも牛より馬の方が多くなったと記憶してますが、違いがそんなにあるとは知りませんでした。馬力があるということでしょうね。
 牛馬が盛んに農耕に使われるようになったのは100年ほど前の大正時代後期のようですが、その馬も昭和30年代には耕運機などの各種農業機械に押されて消えていったようです。
 いま針岡の同級生KS君は毎年10haちかくのお米や大豆を作っているそうですが、そのうち今日までの道のりなど、聞いてみたいと思っています。これほど大規模な農業ができるようになったのは、震災の直前あたりに農地が1ha単位に整備されたことや、優れた農機具のたまものでしょう。しかしまあ、機械も高価ですから、100年前のお祖父さんや曽祖父さんがどう思っているか、それも聞いてみたいところです。

 最近、鍬で畑をおこすことが多く、昔の人の労苦を思い起こしながら、100年前の古里を思い描いています。     (7/6)
 

■雨、雨、雨……
 九州の雨はすごいですね。長野・御代田(ミヨタ)のこちらも、先月25日の晴れ以来、ずーっと降ったり止んだりでしばらくお天道さまを拝んでいません。まあ、豪雨もたいへんですが、地震や津波に比べれば予報も救護体制もある程度はあるので、少しは避難も楽かなと思います。とはいえ、被害に遭ってしまえば苦しみは同じですからできるだけ早い対策が何よりでしょう。
 今年もミヨタでは畑をやってます。とはいっても体が思うように動かないので、今年はジャガイモを20株ほどと、青バツ(あおばた豆)5うねほど、花豆2棚ですべてです。
 去年までは花豆は何年も使った棚を利用して同じところに直播をしてましたが、小さい芽を鹿か何かに食われるので、今年はポットで苗を育て植えました。で花豆は小雨続きの中をひょひょろと網を這って上に伸びています。
 ところが青バツが今年は鹿に食われて情けないことになりました。KS君に教わった薬品のおかげでキジやハトにも食べられず芽はすべてちゃんと出たのですが、20センチぐらいに育ったところで、ほとんどが新芽部分をシカ?に食べられて10センチぐらいしか残っていません。
 一昨年、昨年までは膝上ぐらいに伸びたその上をシカに食べられたのが20%ぐらいありましたが、今年はほとんど全部を食べられました。畑の足跡を見ると去年のように1匹や2匹ではなく、3、4頭はいそうです。
 根元から5~10㎝になったあわれな豆に、それでも今年も丁寧にクワで土寄せしました。もしかしたら運よく脇芽が育ってくれて、少しは実ってくれればと思ったわけです。
 雨ばかり降るので、クワに張り付く土は重く100年ぐらい前の父母たちの農作業を今年も思いました。100年前の衣食住をやっぱり振り返ってみようと思いますが、どんなコーナーを作ったらいいか迷ってます。   (7/3)

■尾の崎の近況、ジオラマ風景のことなど
 6/19、東京新橋で久々に東京周辺の同級会があって、長野の畑から参加してきました。
 新橋の銀座口で、誰か同級生はいないかとキョロキョロしていると、ドーンと胸のあいたファッションの女性が通りかかって、「あ、ここは都会だ!」と実感しました(残念ながら同級生ではありませんでした 笑)。
 参加者はいつもより少ない13名、実は男性陣の連絡役は私だったのですが、前回の出席名簿に無かった3人の方に連絡を忘れ、気が付いたのは3日前でした。ホントに最近は(昔もですが)ポカが多くなりました。HA君、YA君、TN君、すみませんでした。
 仕事の方の現役は自営業の会長職NО君だけ、あとは80歳が目前の同級生だけに皆んな悠々自適、話題の多くは参加できなかった同級生の近況ほか足腰の痛みなど健康状態あれこれでした。でも出席者の皆が言ってましたが、「皆んな昔より美男美女になったねぇ」ということで、どういうわけでしよう。
 
●ジオラマの写真
 一昨年から昨年にかけて、津波で喪失したふるさとのジオラマが作られましたが、その際同級生の多くからご寄付をいただきました。皆様には実行委員会から『つぶやき集』が届いているのですが、そこには肝心のジオラマの風景が少なかったので、今回完成したジオラマの写真集を回覧しました。
 「私の家はここ」とか
 「ここに誰々ちゃんちのお店があった」などなど、意外に話が膨らんだので、オリオンにもその完成写真を残しておきたいなと思いました。
 いま、間垣、釜谷、長面、尾の崎を訪れても、ふるさとの面影は何も残っていません。町全体がゼネコンの資材置き場みたいな感じになっていますので、せめてジオラマの風景で昔を偲んでいただければと思います。(こちら)

●ふるさとの近況など
 東京の自宅へ帰ると尾の崎のKKさんから、ものすごい達筆の長文の手紙が届いていました。オリオンの更新が途絶えがちなのとメール交換もしばらくしていませんでしたから、私の体調を気遣って手紙にしていただいたのでしょう。

・二子地区の街開き祭り
 5月26日に二子地区・街開き祭りが盛大に行われました。イベントは市で仕切ったようですが、長面の伝承太鼓やおどり、雄勝の黒船太鼓、尾の崎・小川水産の焼き牡蠣のふるまいなどのほか、愛知県豊橋市から駆けつけてくれた生の手筒花火のド迫力に圧倒されました。お盆にも地区全体の催しをやろうとの話もあるようです。

・尾の崎橋
 オリオンにある橋の写真は3.11の前からあるやつですね。そのわきに化け物みたいな物体を架橋中です。少し前に工事用の足場が外され、橋脚何本かがむき出しになりました。
 FSさんも尾の崎・長面周辺の惨場を目にされたのですね。まったくその通りです。文化果つる、どんづまりのわがふるさとをなんであんなに壊さなければ復興とかができないのでしょうか? 人間、自然に生かされているのです。あんまり自然を痛めつけると、そのうちまた大きなしっぺ返しをくらいます。
 何階建てかのビルでも作っているようです。まっすぐに弘象山途中まで登り、右に曲がって私の自宅跡後より下がり、K君が焼きハゼに使用していた納屋におりて元の道路と合体するんだとか。
 弘象山の表面もすっかり削り取られ、あわれな景観になりましたた。妖怪みたいな長面の防波堤といい、人住まぬふるさとの原風景を破壊しつくし、なんの復興復旧なのでしょう。お偉いさんの頭の中を覗いてみたいです。
 現状の尾の崎橋周辺の写真は海蔵庵のホームページで見られます。(こちら。弘象山裏の漁港などの写真もあります)

・友人のことども
 今月9日には尾の崎久須師神社の祭典がありました。前日は小雨でしたが、当日は晴天で穏やかな祭り日和でした。12年に1回のご本尊様開帳とかのふれこみで、テキヤさんまで出たり、にぎわいました。
 ムッチャン(管理人・同級生)が神社総代長なのでいろいろ気配りしてましたが、前よりずいぶん体が不自由になったようで、杖をついて参道で転んだりもしてました
。(ムッチャンには一昨年、松島で会いましたが、すごい勇気をもらいました。ますます元気でと祈ります)
 お神楽のTTさんも来られてました。私は舞台から下の方でチョロチョロしており、ゆっくり神楽を見られませんでした。TTさんは舞わずに太鼓だけだったように思います。(TTくんも管理人の同級生、前から脚が痛いと言っていたので、舞は無理だと思いますが、太鼓は素晴らしいので、こちらを一度聞いてみてください)
 
 あとはご自分の近況がつづられており、得意の川柳はますます冴えわたり、昭和から令和になっても『石巻日日新聞』をにぎわせているようです。なかから数句
   見事なるテトラの山です長面海岸
   ふる里の自然破壊しつつ尾の崎橋架けかえ中
   市政への苦言残して副市長去る
   日当たりも家賃のうちかと公営住宅
   青畳無賃の仮設に想い馳せ

 体調は小が近くなって往生しているそうですが、趣味の壁飾りづくりはだいぶ進歩しているようです。
 天王橋河川敷の藪で少し早いタケノコを何本かゲットしてみそ汁の具にしたり、野生の大きなグミの実を大量に食べたり、自然を満喫の毎日のようです。自然といえば、「河北地区もシカ、カモシカ、クマなどの目撃情報は日常茶飯で驚かなくなりました。久須師神社境内の青木(アオキ)は木の皮も葉もすっかり鹿にはぎとられていました。
 釜谷地区の桜もずいぶんやられ何本かは植え替えたようです。祭りの行き帰りに見た長面地区の田んぼは早苗が風にそよいでいました。実りの秋が笑顔で迎えられればいいですね。」

 と結ばれていました。       (6/24)
 

■尾の崎橋は未完成のようです
 6月初め、一つ下のFSさん(長面、国立市)が石巻での高校同級会の帰りに思いがけなく尾の崎まで足を延したそうです。その時はまだ「尾崎橋は在来の橋で、先の方が少し補強されていました」とのことでした。
 石巻まで来たならと大川中の同級生Yチャンらに是非にと誘われ、駆け足で大槻平六さんや羽生玄栄さんの足跡を訪ねてきたそうで、尾の崎、長面の点描に感慨深いものがありました。

尾の崎橋
 昔、若者たちがダツ突きをした橋の真ん中あたりの海中に、巨大な柱が数本立ち上がっていました。Yチャンが、架橋の工事だと教えてくれました。空中に橋ができるのでしょうか。相当高いですよ。弘象山から下りて来れるようにするとか、ウソでしょう。誰が何のために、と疑います。

横手海岸

 車で尾崎橋を渡り、左側、一番奥の神社前で降り、横の階段を登りましたが、横手の海岸線は巨大岸壁に阻まれ、全く見えず、波の音もしませんでした。

長面浦の眺望
 北野神社の鳥居の左側には巨大な岸壁が築造中で、2回も階段をよじ登ってやっと長面浦を眺望できました。鳥居の右手に傾き加減で、「大槻翁碑」が建っていました。

玄英さんの隠れ家?
 長面上の一番奥、少し入り組んだところに、永沼家の大きな家があった、とのことですがYチャンも実際には行ったことが無いそうです。玄栄さんの隠れ家にふさわしい場所だったのでしょう。

 FSさんの今年の調査目標は塩田の大槻平六左衛門につづき『戊申函館戦争と長面』ということだそうで、その動機は『ふるさとかほくの歴史』(2000.10.29刊)に記載されている
「戊辰戦争後、官軍の佐幕派逮捕処罰が始まって、身の危険を感じた玄栄は長面に身を隠し、名家永沼悦之助(前深谷病院長永沼悦男氏曽祖父)一族の配慮で居を構え、医業で生計を立てました」という記事によるようです。
 FSさんの調査能力にはすごいものがあるので、期待して待ちたいと思います。      (6/15)

■尾の崎橋周辺のこと
 昨年だか一昨年だったか、長面と尾の崎を結ぶ尾の崎橋がいつごろ作られたのか、あれこれネットで探したことがありました。
 はじめに架けられた時期はどこにも資料がないらしく東北大学だったか、かなり信頼性のありそうな資料にも時期は不明とありました。大川村というところは全体に記録を残すことが不得手だったようで、塩田の記録なども十三浜村のほうが詳細な記録が残っているとМОさんに伺ったことがあります。

 尾の崎橋の完成時期は分からなかったのですが、「尾の崎橋架設準備進む、軟弱地盤を改良」という日本建設新聞社の記事を見ました。2016年3月15日の古い記事で、完成予定は平成31年3月末ということでした。従来の橋は85mでしたが、橋のたもとの堤防整備(海抜8.5m)や軟弱地盤の改良などで全長152mの橋になるとのことでした。
 すでに完成したのかどうか検索してみると右のような写真がありました。元の写真が小さいので完成した写真なのか完成予想図なのかよくわかりませんが、提供は「石巻復興まちづり情報交流館」とありました。
 記事によれば概算工事規模は24億7000万円~40億円ということですが、居住困難区域に必要なものなのでしょうか。

 長面、尾の崎の現在がどうなのか、GoogleEarthの長

GoogleEarthから
 
長面、尾の崎、松原
 
尾の崎橋付近

面・尾の崎あたりを眺めてみました。GoogleEarthの撮影日がはっきりわからないのですが、長面、尾の崎、松原海岸付近の現状がある程度見えました。
 長面の集落全体がいまだに資材置き場のようで、工場敷地みたいに見えます。難工事だったという松原海岸の砂浜の波打ち際にも堤防が完成したように見受けられます。
 下は尾の崎橋付近のストリートビューですが、新しく完成した橋なのかどうか、良く分かりません。しかしどうも従来の橋のような感じがします。どなたか橋の現状をご存知でしたら教えてください。
 まあ全体に、昨年訪れた時も感じましが、なんだか背筋が寒くなるようなふるさとの風景でした。     (5/14)



■オリオンの311の星(orion311.com)が復活
 しばらく「オリオン311」などの検索ではすべてがクラッシュしたような状態で、ご迷惑をおかけしました。
 積み重ねてきた内容そのものはなんとか移転したのですが、馴染んでいただいた「オリオン311」等の個人名?(正式には独自ドメインといいます)がネット上で通用しなくなった次第でした。
 たまたま権利がまだあることが分かって復活したのですが、まだ少々不安なところもあり、皆さまにも何かお気づきの点がありましたらお知らせください。
  「オリオン311」で検索してもクラッシュ状態のときは、管理人自身も気落ちがしてしまい、ちょっと意欲が萎えました。復活を機会に何か気付いたことを発信していきたいと思っています。

 4月中頃、熱い東京でしたが、久々の友人と寒すぎる喫茶店で長々話し込んで風邪を引いてしまいました。
 その風邪がつい最近まで尾を引いて鼻も行動もぐずぐずしてましたが、連休から長野の畑に来て、春作業に追われているうちにようやく少し治りかけています。
 春作業といえば大川では田植えの時期ですが、針岡のKS君は、今年は連休中に食用米の6ヘクタール、組合関連の飼料米を6ヘクタールという田植えが終わったそうです。
 時ならぬ高温で、福島の鏡石の小学校で竜巻のような突風が吹いたそうです。長面のTN君が鏡石にいて、震災後に生まれたお孫さんの学校ではないかと心配になり、電話してみました。
 学校は運動会でしたが、お孫さんは1年生なので午後には帰宅していて無事とのこと。良かったです。
 TN君も鏡石で畑仕事をしているのですが、さっぱり雨が降らずに畑に毎日水を運んで撒いているそうです。近所の農家さんの用水路の水も枯れているそうで、これは用水池?ダム?に水漏れがあるからだとか。
 田植えなども例年は連休中に終わるようですが、今年は6月ごろになるのじゃないかと心配していました。まあTN君は管理人と同じく腰痛予防の運動がてらの畑仕事なので、それほど気に病むことはないけどと言ってました。
 KS君ともTN君とも「もうすぐ80だから、気をつけながらボチボチやっぺ」というのが電話のくくりでした。
        (5/11)

 ■命令、指令に和せ?
 新しい年号は「令和」だそうだが、管理人個人としてはあまりしっくりこない。「令」は命令、指令、法令、政令などの令で、梅花の香りなど私には直ぐに連想できない。まあ、かぐわしいご令嬢などには出会ったことがないからその素晴らしさは分からないけれども。
 そもそも秘密裏に年号名を決めること自体が、問答無用の上から目線だ。天皇や皇太子など皇室が自ら改元するなら問答無用でかまわないが、時の政権が年号を決定するのはうなづけない。 
 しばらく前、『歴代天皇総攬~皇位はどう継承されたか~』(笠原英彦著 中公新書)というのを読んだが、皇位継承の血みどろの争い、時の政権との覇権争いにはきれいごとでは済まされない暗闘が数え切れぬほどあって驚かされる。
 どうも今回の年号決定は、政治の天皇制利用に見えて仕方がない。
 
 まあ「令和」がイヤなら西暦を使えばいいわけだから、ひねくれ老人はこれからは西暦に親しもうと思う。               (4/2)


■改めて「オリオン311」の新アドレス
 Yahooのレンタルサーバー中止によってオリオンの各ページが見られなくなります。トップページをこちらに移動してありますので、改めてご覧になり、お気に入りなどに登録していただくとありがたいです。
 近々、元のアドレスが使えるようにしたいと思いますが、最近はPC情報の勉強もしんどくなって、いろいろ手違いばかり生じて慌てています。

●間垣慰霊碑の周りにさくらの植樹
 3/10には間垣の慰霊碑公園で桜の植樹会があったそうです。エドヒガンザクラの苗木101本が、170人の参加者の手で植えられ、3年後の今頃には満開の時期を迎えるそうで、そのころには文字通り、「間垣さくら広場」になるそうです。

●8度目の3.11
 最近は身体も気持ちも活発には動かなくなって、テレビを見て過ごすことが多くなりました。3/11には各局の追悼番組を見たあと、たまたま録画していた昨年放送されたらしいNHKのB1スペシャル『被曝の森2018』をみました。
 浪江町、富岡町、大熊町など帰還困難地域の残留放射線のことなどが詳しくレポートされ、原発事故がいかに恐ろしいものかがひしひしと伝わってきました。
 セシウムの半減期は30年で、その後、減退速度は年々遅くなるそうで、ゼロになるには120年かかるそうです。各地区の除染作業も進んでいると報じていましたが、
除染(?)と言っても平地の表土を搔きとつて移動しているだけですから、除染ではなくただの汚染移動。
 草木の放射線は花や実の部分に集中的に移動するそうで、春の花粉の季節には当然放射能も飛んで来るとのこと。
 こんな恐ろしい原発を稼働しつづける神経も恐ろしいものだと思いました。

●一夜明ければオリンピック騒ぎ
 3/12には3.11のことはほとんどなくなり、「オリンピックまで500日」と大騒ぎ。これが風化というものでしょうが、なんか日本中がイベントの目くらましで日々を過ごしているような虚しさです。
 オリンピックの競技そのものは期待しているけれど、大騒ぎはもうやめてほしい。被災地の復興がオリンピックのせいで遅れたのは承知のことだし、人手不足も交通渋滞もオリンピックのせいだ。
 気の毒でかわいそうなのが水泳の池江選手。それに続いて萩野選手もどうしてしまったのか。二人とも大ファンなので、なんとか頑張って復活してほしい。
 
●譲位と改元
 これもまあ大騒ぎですが、たしかに譲位というのは歴史上のことと思っていた私にはなるほどそういうことかと思った次第でした。
 昭和に育った私としては昭和天皇の崩御と改元を感慨深く受け止め、その夜の東京の様子をビデオに収めたりしました。昭和天皇の長い闘病を経験した今上天皇が譲位を決断したのはたいへん良かったと思います。
 つきなみながら来たる新時代が、災害や事故のない世であることを心から願いますが、つまらない政治家などにあまり出しゃばってほしくないとおもいます。  (3/29)


■「オリオン311」の新アドレス
 大川地区の追想サイト「オリオンの311の星」のアドレスはhttp://orion311.littlestar.jp/になります。お気に入りなどの変更をお願いします。
 ※あえて変更しなくてもたぶん閲覧できると思いますが、もし4月に入って見られなくなったら、http://orion311.littlestarjp/にしてください。その節にはまたお知らせいたしますが。
 これまでのYahooのサーバーは3月末で中止になり、4月以降は閲覧できなくなりました。Yahooは、まあまあ気に入っていたのですが、採算の合わない部門はどんどん切り捨てていくのでしょうね。非情なもんです。
 移転に伴い写真の表示ほかに不都合が生じているかもしれません。お気づきの点がありましたら、お知らせくださるようお願いします。    (2/19)


■テストです
 Yahooからlolipop!というサーバーに引っ越しました。うまく機能するかどうかテスト中です。 (2/16)(2/17)UPできず。けっこう苦労しましたが(2/19)ようやくUP成功のようです。


■間垣慰霊碑脇の公園が「間垣さくら広場」に
 間垣慰霊碑保存会から今後の予定などのご報告が届きました。
・3月1日に間垣の慰霊碑脇の公園が工事終了となり石巻市に引き渡され、保存会が来年度から慰霊碑と公園の管理にあたるそうです。
・公園の名称は「間垣さくら広場」となり、8回目の命日前日の3月10日に慰霊を兼ねた桜の植樹会が行われるそうです。
●間垣さくら植樹会ご案内
日時:3月10日(日)11:00~13:30
場所:間垣さくら広場(間垣の慰霊碑の脇)
主催:間垣慰霊碑保存会
共催:NPO法人さくら並木ネットワーク/一般社団法人長面浦海人/石巻市社会福祉協議会

・当日は約100本の桜の植樹が予定されています。
・参加人数分のおにぎりが用意され、長面海人さんの協力で焼き牡蛎、しうり汁の提供もあるそうです。
・小雨、小雪決行。駐車場は十分にあるそうです。
・終了後は遠藤さんの「まがき」が開いていますので、時間のある方は休憩場所としてご利用くださいとのことです。        (2/10)
 

■突然の消滅の危機
 「オリオン311」が利用しているYahooのレンタルサーバーが3月末でサービスを停止するそうです。このままでは3月末には「オリオン」内のすべてのデータが消えてしまいます。
 まあ、平成も終わるそうですからオリオンもそろそろ幕を閉じてもいいのですが、多くの方の大川村に関する情報や記憶がストックされていますから、ちょっともったいない気もします。
 「100年前の大川村」などこれから少し探ってみたいこともありますし、「オリオン」内の主要な話題を簡単な冊子の形で残しておきたいとも思い、それには少々時間がかかるので、オリオンのデータはもう少しの間残しておきたいとも思います。
 電子媒体は便利ではありますが、今回のように企業都合のほか、天変地異やサイバー攻撃などで突然消滅することがあります。その点、紙の記録は何百年後もどこかに残っていることが多く、記録は紙の方が確実に思えます。その意味でも、オリオンの内容を紙に移しておきたいと思っているわけです。
 そんなわけで、もうすこし「オリオン311」を続けるべく別のサーバーへの移転を試みていますが、なかなか難しそうです。なんとか4月までは成功させたいと思いますが、あるいは少しの間閲覧ができなくなることもあるかもしれません。どうすればいいか、いろいろ試行錯誤しています。皆さまにも何か良い知恵がありましたらお知らせください。変化がありましたら、またお知らせしますが、突然の閲覧不能などがあるかもしれません。しばらくご容赦ください。

 まったく別件ですが、先日運転免許を更新しました。有効期限がどう表記されるか興味があったのですが、「平成34年〇月〇日まで有効」とありました。平成はしばらく続くのですね。     (2/8)
 


■「つぶやき集」ができました。感謝!
 待望のつぶやき集が昨年12月25日に完成したそうで、さっそく現地で実務を担当されている間垣の遠藤さん(ヒトボさん)からご送付いただきました。
 遠藤さんには編集段階のさまざまな疑問点などをお手伝いいただいたようで、引きつづき現地の実務担当として配布や頒布に大変なご努力をいただいております。改めて感謝申し上げます。「つぶやき集」の詳しい内容についてはこちらをご覧ください。 

 
表紙

本文 

 とりあえずの初版は400部でうち100部はお世話になった関係者に配布され、残りを大川地区で被災されたご家庭に配布(希望者、1世帯1冊まで無料)、そのほか地域外の方や追加購入をご希望の方には1部1000円(税込)で販売し、増刷の原資とさせていただくそうです。
●現地販売 間垣の遠藤さん宅に在庫があります。
●郵送販売 1部1000円+送料(1部あたり250円程度)。詳細はプロジェクトのfacebookに掲載されますのでご覧ください。
 お急ぎの方は長面浦海人へメールまたは電話でお問い合わせくださいとのことです。
メール nagatsuraura@gmail.com
電話 090-7330-3311 

 遠藤さんはじめ、関係者の皆さま、ほんとうにご苦労さまです。ありがとうございます。    (2/3) 


■大川のオリーブ今秋から商品化
 昨日()1/30の東京新聞にうれしいニュースがありました。
 昨年秋に大川に帰った時、間垣のヒトボさんの案内で釜谷にあるオリーブ畑を見学させていただきましたが、これらの「北限のオリーブ」が震災からの復興の象徴として今秋から商品化されるそうです。
 これらのオリーブは2014年から網地島(あじしま)、雄勝、北上、河北の4か所で実証栽培が始められ、昨年は84㎏の収穫があっそうです。
 今年は500㎏、来年は1トンの収穫を目指すそうで、オリーブオイルや塩漬け加工の工場も今年秋には完成するそうです。詳しくは右の記事をご覧ください。    (1/31)


■さて、今年は
 年末に今年は「100年前の大川村」、それに「記憶に残る大川の風景など」を水彩で描いておこうなんて言いましたが、まだ何もしていません。

●「100年前の大川村」とは?
 じつは昨年春、家庭菜園用の管理機(一応ガソリンエンジン付きのカルチベーター)が故障して、豆畑のウネをクワで立てたのですが、3mもやると息が切れて一休みしては、
「松原の開墾地を父や母はクワとスコップだけで耕していたなあ」と思い出していました。あの頃はどこにもトラクターやユンボなどはなく、たいていはクワ一本の農作業でした。覚えているのは7、80年前のことですが、だいたい100年前も同じようなことだったろうと思うわけです。
 しばらく前から20世紀の100年は、人類にとって猛スピードの変革がなされた100年だったと思っていたので、何かの参考にならないかなあと思った次第です。
 映画、軽音楽、飛行機、電気の普及などなど、あらゆるものが100年ぐらい前から始まって急速な変化を遂げたと感じます。
 100年というと長いようですが、地球の歴史や人類の歴史から見ればほんの一瞬。この時代に生きたのが幸せだったかどうかは分かりませんが、その渦中にいた実感を記しておきたいと思った次第です。

●「記憶に残る大川村の風景」とは?
 私の場合、幼い時の記憶は主に長面・尾の崎の風景や行事ですが、写真に残っているのはごく一部で、あまりはっきりした記録はありません。
 印象に残っていることをおぼろげな記憶を頼りに描いてみようと思いました。ただ、絵心があるわけではなく、水彩も油も経験がないので、まず道具選びからです。
 記憶に基づく絵を描いてみたいと思ったのは、2016年の春に脳梗塞をおこしたとき、まともな思考はできなくなるだろうし文字も書けなくなるだろうから、絵でも描こうかと思ったのが初めです。ですから、ちゃんとした絵が描けるとは今も思っていません。落書きと思っていただければとおもいます。
 そのうち何か仕上がりましたら、見ていただきたいと思います。サイト内のどこかにコーナーを設けたいと思いますので、皆さまもぜひご参加ください。     (1/8)

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