〔大川(石巻市)追想〕 昭和中期の遊びと暮し


 今は海の底になっている松原の海岸に、夢郷または無郷さんという日本画家がおりました。


 東光園 〜夢郷さんのこと〜      松原A

 東光園は私立の公園のようなところだった。
 個人の家なのだが敷地が広大で、子どもの目には学校の校庭が2つか3つ入りそうに広かったと記憶している。3割ぐらいは畑になっていたが、大部分は大きな松の林で、周辺部の一部にはアカシヤの林が繁っていた。
 屋敷といっても市街地ではなく、集落から離れた長面海岸(横手の砂浜)と防潮林の間なので、どこからどこまでが私有地なのかよくわからない。防潮林を浜方向に抜けたところに、流木の板に「東光園」と墨書した看板だか表札だかが立っていて、ここまで敷地なんだ、と思ったことがある。

 松林の少し開けたところに、古風な平屋の田舎屋がポツンと建っているが、その庭が素晴らしい。
 前庭の一段低いところが花壇になっていて、真冬以外はいつもさまざまな花が咲き乱れていて、お盆や彼岸には村の人びとが花を求めてたくさんやってきていた。花壇の上の右端には当時の田舎では珍しい芭蕉があって、毎年大きな葉を広げた。

住まい兼アトリエの周辺図(松原Aの思い出スケッチ)

 花壇は瓢箪型のかなり大きな池に沿っていて、夏にはハスが花を咲かせた。水中にはメダカはもちろんコイやフナがいて、水に突き出た松の根っこでは亀がよく日向ぼっこをしていた。
 瓢箪型の池は自然の築山でくびれていて、この築山には十数本の太い松が生えている。この池の中の小山だけでも子どもたちにはけっこうな遊び場だった。

 ある春、この築山の松はもちろん、母屋のまわりの松に、小鳥の巣箱が30個か50個かけられた。一家が作ったものか、学校の生徒たちの作品だったかは忘れてが、おかげで翌年からはこの家のまわりは小鳥たちで大賑わいになった。
 もともとここの主は小鳥が大好きなようで、いつも鳥かごにはヒバリやメジロ、スズメなどがさえずっていた。母屋から少し離れた東側には、ヤギ、羊、ニワトリなどの家畜の柵があって、彼らは私たち子どもの遊び友達だった。
 当時の農業には牛馬の力が大切だったが、農耕用の牛馬はいなかった。終戦直後の食糧難時代にも、ここの主は農耕に関心があるようには見えなかった。関心事はもっぱら花や小鳥、小動物、それに絵をかくことのように子どもの目には映った。

 ここ東光園の主は、永沼夢郷さんという日本画家である。本名は永沼貞一(さだかず)。
 長面の永沼孝次さん(故人=通称・ナガコウ)という人の弟で、若いころは東京でお巡りさんをしながら日本画の修業をつづけ、昭和10年ごろには東京・渋谷で日本画家として独立していたという。昭和17年ごろに長面へ帰ったが、当時の話をご長男から最近聞く機会があった。
 戦争が始まるころ、夢郷さんは東京にとどまるか田舎に帰るか悩んだという。そのころ多摩市にあった明治天皇記念館の館長が亡くなって、その跡を引き受けうけてくれないかという話があったという。子どもたちは長面より多摩の方がいいと言ったそうだが、しかし、夢郷さんは結局白砂青松の田舎を選んだという。
 当時、兄のナガコウさんが松原の土地18町歩を内務省から払下げてもらっていて、そのうちの3町歩を分けてもらったのだそうだ。
 はじめて東光園の敷地面積を知ったが、3町歩といえば9000坪、サッカーコート4面分よりちょっと広いくらいある。子ども心に広い土地だと思ったのも無理はない。

 さて、画家といっても戦中戦後の田舎のことだから個展とか展覧会とかの話は、少なくとも私は知らない。しかし、戦時中の物資不足の時代にも、県や国から画材が支給される画家だった。年に一度、仙台で審査があって、一定以上の画格と実績が認められた人にだけ絹布、絵具、筆などの画材の支給されるのである。東光園の主はすでに中央でも画家として認められた人だったのだ。
 描くものは日本画、とくに水墨画の記憶が私には強いが、わが家の座敷にあった梅と朧月が印象に残っているからかもしれない。サインは東光園とあったように思うだが、記憶違いかもしれない。

 戦中戦後の鄙びた田舎で、絵がどういう人に売れたのかは知らないが、松風かそよそよと入る座敷で、いつも絵を描いていた。大きいのや小さいのやいろいろだが、ときには渡り板のようなものに乗って、かなり大きいものに取り組んでいることもあった。
 村に新築や改装の家があると、襖の絵もよく頼まれた。直筆の襖は最近では珍しいと思うが、当時の田舎はけっこう豊かで風流だったのだろう。
 先日、鎌倉でお会いした横浜のMKさん(尾の崎・松原荘の弟さん)は「うちはムキョウさんに襖を描いてもらったなあ」と言っており、葉山のKS君(長面)は「ムキョウさんの今にも飛び出しそうなスズメの絵があったよ」と言っていた。また、尾の崎のKKさんが、「恵比寿さん、大黒さんがゆったりと舞い、……高砂や この浦海に 帆を上げて……との賛も入った額装の絵があったが津波で流された」と書き送ってくれたが、ムキョウという雅号が、
夢郷なのか無郷なのかは誰もはっきり覚えていなかった。

 もう一昨年になるか、お孫さんにあたる雄勝分浜・高源院の斎藤住職(現・松山の真源寺住職兼務)に聞いたことがあったが、
「雅号は夢郷で間違いありません。ただ、どういう間違いか寺の過去帳を見ると無郷になっているんですよ」という面白い答えだった。
 前出の長男のMNさんも「夢郷だった」と言っているので、夢郷が正しいと思うけれども、たしかに東光園は夢の郷だった。
 ちなみに東京時代は「北川(ほくせん)」と号していたそうで、あるいは北上川を意識したものだったかもしれない。

 この項を記した時点では永沼夢郷さんの絵が一枚もなかったが、その後前出の高源院・斎藤住職(現・松山の真源寺住職兼務)郷であれ無郷であれ、いまは東光園はもとより松原全体、そして長面全体が海に覆われていて、まさに夢であから、高源院にあって津波に遭ったものの、なんとか修復された絵を何点かと、これも修復された高源院の襖絵の写真が届きました。「Gallry 永沼夢郷さんの世界」(こちら)にありますのでご覧ください。

 東京を離れて、あの場所に住まい兼アトリエを構えるのには、相当の決意と覚悟が必要だったのではないだろうか。
 まず、外洋が近すぎて危険である。住まいから砂浜を100mちょっと行けば太平洋の波が直接打ち寄せている。別に堤防などはなく1mぐらいの砂の土塁が申し訳程度にあるだけで、「夜なんかは波の音が聞こえて怖かったよ」と長男のMNさんがは言う。
 しかし、夢の郷というか桃源郷というか、そういう雅の世界での生活や絵を実現するには、この場所しかないという強い思いがあったのだと思う。渋谷を引き払うとき、子どもたちは多摩の明治天皇記念館を望んだというが、夢郷さんはあえて住む人も訪れる人もなかった田舎の原野を選んだのである。

 夢郷さんは、ワラでチョンマゲを結っているなど、ふだんの生活でもなんとなく仙人を思わせた。チョンマゲというのは正しくないが、総髪を後ろにまとめてワラで結んでいることが多かった。その風貌は古武士を思わせて威厳があったが、とても優しい人だった。
 あるとき、どこかの浜から数トンはありそうな丸石を運んできて、庭先にデンと横たえた。ダルマサンを横にしたような大きな白っぽい丸石で、それになにか刻み始めた。
「なにしてるの?」
「ワシの墓石だ」
「えー? 墓石は縦長じゃないの?」
「死んでからまで、立っていたくないからな」
 子どもたちとの他愛のない会話だったが、私は長面の墓地に行くたびにその言葉を思い出した。

 金沢の兼六園、岡山の後楽園、水戸の偕楽園が日本の三大庭園だそうだが、私には夢郷さんの東光園が日本一だ。住まい兼アトリエの老松を空かすようにして、東の太平洋から朝日が昇ってくる。それが東光園の名の由来だろう。
 その後だいぶ経ってから公認の「長面海水浴場」になったが、戦後しばらくは、この砂浜で泳ぐ人はほとんどいなかった。長面や尾の崎の集落からは2キロぐらい離れていたし、長面や尾の崎の子どもたちは家の近くの長面浦で泳いだ。釜谷より内陸の人はこの横手の砂浜(正式には横須賀海岸という)を知っていたかどうか。海水浴に出かけるなんてこともあまりなかった時代だった。
 私は長面浦でもずいぶん泳いだが、東光園の近くにわが家の開墾中の畑があったし、東光園には同級生のS平ちゃんがいたから毎日のように行ってはここで遊んだ。
 夏はもちろん泳いだが、友人以外はだれもいないので、たいていはパンツも脱いでフルチンだった。

 そのうち、とくにお盆などはだんだん人が来るようになって、海水浴場のようになってきた。東光園は敷地が広いし、付近にはない井戸もあるので、小学校や中学校の臨海学校、青年団や4Hクラブのキャンプなど、公共施設のようになって賑わいはじめた。
 すると夢郷さんは、脱衣場がなくては不便だろうと、シャワー付きの脱衣場を作って自由に使わせた。このシャワーもそうだが、敷地でのキャンプにしろなんにしろ、料金はとらなかったと思う。あるいは大川村からなにがしかの補助があったのかもしれないが、ともかくそういうことを心から楽しんだ人だった。

 夢郷さんが亡くなって東光園はなくなったが、そこでの経験は私のベースであり、自然と遊ぶ心も心もここで育てられたと思う。津波で長面や松原が消えてしまうまで、田舎に帰れば必ず横手の浜をぶらぶらした。景色も小鳥たちもそのままだったし、ここを懐かしく訪れる人には松原荘が優しく待っていてくれた。
 白砂青松の松原海岸と東光園……、あれを今、夢郷というべきか、無郷というべきか。
                    (2014/3/18)

*夢郷さんの絵が一枚もないのが残念ですが、どなたかお持ちでしたら写真をお寄せください。
*東光園や横手の砂浜での遊びの数々などにも、そのうちふれたいと思います。
*「松原荘」も海にのまれましたが、現在は石巻市大森で日本料理を提供しています。ホームページ(こちら)をご覧ください。

【尾の崎KKさんのお便り】
 懐かしいなあ。
 学校の海水浴では東光園の脇を通り、松林を抜けて水辺までの砂をアチッアチッと踏みながらの心地よい歩み。
 あの頃は砂がキュッキュッと鳴く,鳴り砂がところどころにあったような気もしましたが、今は遠いゆめ幻です。
 浜ぼうふうもくさるくらい茂ってましたね。 
 下船して尾の崎に落ち着いてからは、超自然児となり、尾の崎山との対話、横手の松原には週に4〜5日は通いつめてましたから、松原内のことは誰にも負けずに解ると自負してます。 (2014/3/19)

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